六甲の恵み 灘五郷生んだ「奇跡の水」

六甲の恵み 灘五郷生んだ「奇跡の水」

ワインやお茶などの味や香りを決定するさまざまな環境を指すテロワールの視点で、日本酒の原料となる「水」を取り上げたい。

 

水車の産業都市

六甲山の南と北の地質の図

 まず、地質を示す図を見てほしい。東条川(加東市)や美嚢川(三木市)の流域など薄い緑色で示されているのは、山田錦の産地として蔵元の人気が高い特A地区が広がる「神戸層群」の地域。その南側で東西に長く延びるピンク色で示した地域が、六甲山から淡路島へと続く花崗岩(かこうがん)の地層だ。

 7千万~8千万年前ごろ、恐竜の時代に地中のマグマだまりが冷えて固まってでき、主に地下十数キロにあったとされる。そんな深い地層がなぜ、900メートルを超す山の地表に露出したのだろうか。

 

 

 「ここ100万年の間に地下の断層活動が活発化して隆起し続け、神戸層群などの新しい時代の地層がすべて流されて、今のような花崗岩の険しい山ができました。六甲山は今も隆起を続ける若い山です」。兵庫県立人と自然の博物館の主任研究員、加藤茂弘さんはそう説明する。

 

 地球のダイナミックな営みから現れた急峻(きゅうしゅん)な山の周囲に、いくつもの急流河川が生まれる。日本一の酒どころ「灘五郷」は、この水の勢いを水車に生かすことから始まった。

 六甲山の南側では、江戸時代の初めには菜種などから照明用の油を搾る水車が稼働していた。やがて、米の表面を削る精米を目的とした酒造用の水車が登場する。六甲山系で最も大きい川の一つで、今も水量豊かな住吉川(神戸市東灘区)河川敷の「清流の道」を歩くと、人々が生かしてきた水の力を実感する。

 最高峰931メートルの六甲山系から発する水は、長い階段のように延々と段差が続く川床を、滝のように流れ落ちて5キロ先の海へと注ぐ。上流にある白鶴美術館から南へ少し歩くと、水路沿いに復元された「灘目の水車」がある。

 

灘目の水車

 住吉歴史資料館学芸員の内田雅夫さんが、水力で精米していた当時の様子を語ってくれた。「水車は建物の中にあり、そこにいろいろな設備が加わって、大きな工場のようになっていました。それが六甲山の水車群の特徴です」。巨大な水車の両側には計100ほどの杵(きね)と臼が備え付けられ、24時間、米を磨き続けた。住吉川水系だけで、1万もの臼があったという。

 人の力で精米していた時代に水力という自然エネルギーが導入され、一帯は技術革新の地となっていく。

 生田川、都賀川、石屋川、住吉川(神戸市)、芦屋川(芦屋市)。六甲山系の川に広がる水車群で磨かれた良質な原料米は、海沿いの地域に増え続ける酒蔵に運び込まれた。大量生産が可能になった質の高い日本酒は帆船で江戸へと運ばれ、市場の7~9割を占めるまでになる。自然エネルギー産業都市の経済力に目をつけた江戸幕府は、この地を直轄の天領とした。

 六甲山の麓で発達した「水車産業」は明治・大正期に最盛期を迎えるが、電力の普及とともに衰退。1938年の阪神大水害で水車の大半が流失し、壊滅した。内田さんは「水車産業を中核に、さまざまな雇用が生まれた六甲山の南側は、先進経済地域だったと言えます。発展の礎となった水車の歴史に、もっと目を向けるべきです」と訴える。

 

絶妙なブレンド

 

六甲山の急流のもう一つの恵みは水質だ。花崗岩の地層に浸透し、400~600年かけて流れ出る地下水は、カルシウムとマグネシウムを多く含む中硬水。日本人が好む軟水と、欧米のミネラルウオーターに多い硬水の中間の水だ。

 「酵母による発酵に欠かせないリンやカリウムが豊富な一方、日本酒に不要な色やにおいの原因となる鉄が少ない」。白鶴酒造(神戸市東灘区)で酒造用水を管理する品質保証部長、小西武之さんが、酒づくりに理想的と賞される名水の魅力について熱く語った。

 六甲の名水は、神戸・阪神間の急速な開発から守るための取り組みによって今も品質が保たれ、酒づくりの大事な原料として使い続けられている。

 灘五郷の神戸地区では、マンションや鉄道などの地下工事の際、酒造組合の「水資源委員会」が施主側と地下水に影響を与えないための対策を協議する。調査研究の活動も怠りない。1973年には、将来も安定的な水資源を確保するため、住吉川上流の水を取水する酒造専用水道が建設された。

もう一つ、灘五郷の酒造用水の象徴とされるのが、西宮の宮水だ。24年に前身組織が発足した「宮水保存調査会」の活動によって、守られている。

 

 宮水は長年、三つの伏流水の絶妙なブレンドによって品質が保たれてきた。「奇跡の水」と呼ばれるゆえんだ。

 

宮水井戸群地図

 各酒蔵の宮水井戸は西宮神社南東に集中している。北東からの「法安寺(ほうあんじ)伏流」、北からの「札場筋(ふだばすじ)伏流」は縄文時代に入り海だった場所を通るため、ミネラルは豊富だが、日本酒にマイナスとなる鉄分が多い。この鉄分が、夙川方面からの流れが速い「戎(えびす)伏流」に含まれる酸素に触れて酸化鉄となり、自然の力で取り除かれる。

 閑静な住宅街の中にある大関(西宮市)の宮水井戸を見せてもらった。地上から3メートルもない浅い井戸の底には砂利が敷かれ、市街化地域の水とは思えない清涼な色をしている。

 「年2回の一斉採水では、ほかの蔵の井戸とともに広く民家の井戸でも調査され、地域全体で水に異常が起きていないかを調べます」と大関の品質保証部長、絹見昌也さん。2017年、西宮市は工事の事前協議を義務化した宮水保全条例を制定した。

 海に近い宮水は、開発に伴って伏流水が弱まると海水の浸透を受けやすい。このため採取地は北上を続けてきた。いくつもの時代を超えて銘酒を生み出してきた奇跡の水が、次世代へと受け継がれるよう願っている。