山田錦 誕生から85年 別格の酒米 

山田錦 誕生から85年 別格の酒米 

「村米」の旗

 

 三木市の中心部から加古川の支流、美嚢川(みのうがわ)の上流に向かう県道に入り、車を走らせる。緑のじゅうたんのような水田地帯に出てしばらくすると、田んぼに沿って立ち並ぶのぼり旗が目に入る。山田錦の産地と日本酒の蔵元との契約栽培を示す「村米(むらまい)」の旗だ。

 旗には蔵元や銘柄が記されている。水色は西宮の「白鹿」。「八海山」は新潟、「勝山」は仙台の蔵元だ。

 さらに進むと、見覚えのあるロゴマークの旗が現れた。神戸市東灘区の「剣菱」だ。2007年、村米の旗をいち早く立て始めた。まだ青い稲穂と旗の様子を見回るのは、

社長の白樫政孝さん。「田植えの6月から旗を立てますが、雨風で1シーズンもちませんね。傷んだものは取り換えます」

 兵庫県産の山田錦は特別な酒米である。日本酒を製造する蔵元は全国で1200程度とされる。このうち有名銘柄の多くを含む550の蔵元が、兵庫の山田錦を使っている。

 山田錦が兵庫で誕生してから85年。この間、全国各地でいくつもの酒米が開発されてきた。しかし、精米のしやすさや発酵の進めやすさなどで、別格の評価を受ける山田錦に

並ぶ酒米は、まだ現れていない。

 

 

2007年から山田錦の田に立てられる剣菱の旗。持つのは、剣菱酒造社長の白樫政孝さん=三木市吉川町

 

東西の谷

 

 産地に昔から残る格言がある。「酒米買うなら土地(土)を買え」。良い産地の特徴として、まず挙げられるのが「東西の谷」にあることだ。

 北播磨、神戸市北区、三田市などの主産地の中で、歴史的に高い評価を受け、蔵元の人気も高いのが特A地区だ。兵庫県が作製した地図を基にした、特A地区の図を見てもらいたい=図。同様の図は、日本ソムリエ協会認定試験の日本酒教本にも掲載されている。

 

 

 青い点は「特A―b」の集落。赤い点は最高の格を与えられている「特A―a」の集落だ。三木市の美嚢川、加東市の東条川に沿って、東西に広がる谷あいに集中している。

もちろん、南北の谷にも良いところはある。ポイントは日当たりが良く、昼夜の温度差が大きいところだ。

  これに対し、東西の谷の利点としては、六甲山系の山々が瀬戸内海から吹く暖かい南風をさえぎり、良い稲が実るために必要な夜間の気温低下が起きやすいことが挙げられる。

 産地の地形と気象の研究を手掛けた人に、1961年から酒米振興会の初代事務局長を務めた故・森本巌さんがいる。兵庫県職員らの兵庫酒米研究グループが出版した「山田錦物語」に、その研究談が記されている。

 夏の暑い日、海からの暖かい気流は加古川流域の播磨平野を抜けて、北に向かって吹き上げる。気流は支流の美嚢川流域にも押し寄せるが、なぜか途中で止まってしまう。東条川に流れ込んだ風も同じだ。

 この点について、森本氏は、その先にある丹波の奥深い森林から吹く冷たい気流が抑え込むためだ、と解説する。

  

「神戸層群」

 

 農地整備で現れた神戸層群の地層=三木市吉川町

 

    産地のもう一つの特徴は地質にある。特A地区の多くは「神戸層群」と呼ばれる地層に分布している。植物のきれいな葉の化石が数多く出る地層として知られる。

 近年の研究によると、神戸層群は3千万~4千万年前の年代の堆積物によってできた、とされる。「最近では、小さな川がたくさんあった時代と湖だった時代が交互に繰り返されてできた地層、との見方が一般的です」と、県立人と自然の博物館(三田市)の半田久美子主任研究員は説明する。

 県立農林水産技術総合センターの調査では、稲の栽培に適した粘土の層が分厚く砂利土の層が少ないため、根を深くまで伸ばしやすいことが分かっている。

 ただ、粘土質の層と別の地層の間に水がたまるなどして地滑りが起きやすい面がある。棚田の石積みが崩れることもあり、農地の維持は大変な作業だ。

 三木市吉川町の山田錦農家、森本秀樹さんは「田んぼの水を抜く夏の中干し後に大雨が降ると、乾燥で生じた亀裂に水が入り、あぜが崩れてしまうことも。やっかいな土ですが、ミネラルなどの栄養分を保持する力は強い」と、産地の土の魅力を語る。

 

 ワイン業界のように、酒米を育む土を酒造りの視点からとらえて発信する蔵元も出てきた。

 加東市東条地区の「秋津」など、特A地区にこだわる本田商店(姫路市)。代表銘柄「龍力(たつりき)」を醸す山田錦の栽培土壌を紹介するため、「龍力テロワール館」を20年11月にオープンさせた。

 特A―aの「社」(加東市)、「東条」(同)、吉川(三木市)の土の組成や性質を解説し、これら3産地で収穫した山田錦を使って、同じ製法で造った日本酒を販売。味の個性の違いを楽しませてくれる。

 本田商店の本田龍祐専務は「日照と気候条件の恵まれた特A地区でも、土壌が違うと味が異なることが分かり、それを説明しようとするうちに、ワインの世界で使われる『テロワール』という言葉にたどりついた」と話す。

 

 産地の土壌と酒の関係性について語る本田商店の本田龍祐専務=姫路市網干区、「龍力テロワール館」

 

14系統の種子

 

 他の酒米の追従を許さない兵庫の山田錦。その優れた品質は、種子を守る地道な取り組みで維持されている。

 兵庫県では、その遺伝的な特性を守るため、まず14系統の山田錦を栽培する。そして厳格な審査を経て認められた1株ずつを選び出し、その種子を「原原々種」としている。これが山田錦の大本だ。

 翌年以降に原原種、原種を育て、次の年の4代目が農家に種子として供給される。日本酒の蔵元に届くのは、5代目となる。

 こうして守られる山田錦は、実は最近の品種に比べると、かなり栽培しにくい稲だ。まず125センチという背丈は、コシヒカリなどと比べると20センチも長い。このため肥料が多いと倒れやすく、10月収穫で栽培時期が遅いので台風の被害にも遭いやすい。収量が少なく、病気にも弱い品種なのだ。

 

 各地の酒米との品種競争の中、山田錦も特に背丈を低くする改良が取り組まれてきた。そこへ、1990年代の吟醸酒ブームが起きる。蔵元の間で、半分の大きさまで精米しても割れにくく、低温でじっくり発酵させやすいなどの特性が高く評価され、いっそう特別な存在へとなっていく。

 

 「品種をつくるまでは新しい性質を盛り込もうと試みるが、いったんできれば形質の維持に徹する」と話すのは、全国で唯一の酒米専門の研究機関「県立酒米試験地」(加東市)の池上勝主席研究員だ。

 育てにくく、収量も少ないというマイナス面が指摘されながらも、一貫して山田錦本来の形質を守り続ける研究員。それを田んぼで忠実に実現させる農家。両者のつながりが、兵庫原産の山田錦にさらなる強さをもたらしたと言える。

 それは、和牛の大型化という国内産地競争の中で、小柄という形質をかたくなに維持してきた但馬牛の種に対する取り組みと、同様の哲学だと感じる。

 海外のワインソムリエやシェフの世界で日本酒の評価が高まる中、素材と風土を重視するテロワール*の目線から、山田錦と兵庫に向けられるまなざしは強まるばかりだ。

 飛び抜けた存在であり続ける奇跡の酒米の物語。もっと広く共有されることを願ってやまない。

 

*〈テロワール〉 ワイン業界で使われる、味や香りを決めるさまざまな自然環境をさすフランス語。原材料となるブドウの畑の土壌成分や水はけはもちろん、日当たりや気温、雨量、風向といった気象条件、さらに農家や醸造職人の技術も含まれる。フランスでは「テロワールを最大限に引き出すのが醸造者の使命」と言われ、ワインの産地は詳しくテロワールを示すことで、土地に根ざした味や香りをアピールする。日本でも日本酒やお茶の業界で、産地や食文化について情報発信する動きが広がっている。