歴史・背景
「因幡垣屋系図」によると、楽々前城は垣屋隆国が応永年間(1394~1427)に築城し、その子満成が跡を継いだといいますが、史料上は隆国も満成も確認できません。おそらく、垣屋氏の楽前庄入部は、但馬の南北朝騒乱が事実上終結した貞治2年(1363)以降と思われます。
15世紀半ば以降、恒屋氏は守護代家としての地歩を固め、宗忠・豊遠・宗続らが城主でした。宗忠は、文明4年(1472)2月小佐郷(八鹿町)国衙(5町1反半)の反銭を日光院に寄進しています(垣屋宗忠書下「日光院文書」)。豊遠は文明9年(1477)6月、宗続が文明12年(1480)、宗忠が寄進した小佐郷国衙の反銭を日光院に寄進しています(垣屋豊遠書下、垣屋宗続書下、「日光院文書」)。
しかし長享2年(1488)7月山名政豊の播磨からの総撤退以後、但馬は守護家山名政豊と守護代家の垣屋氏が対立するという極めて緊迫した情勢となりました。同年9月あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏(続成・遠忠ら)を筆頭とする26人の国人が、政豊を廃し備後守護山名俊豊(政豊の長男)を擁立しようとして、政豊・田公肥後守の立て籠もる木崎城(旧豊岡市)を包囲しています(「蔭涼軒日録」)。宿南保氏によれば、この争いは最終的に以下のようになったといいます。1.明応3年(1494)6月には、西ノ下谷(楽々前城周辺)に政豊・致豊勢が攻め入り、俊豊・垣屋続成勢との間に一大決戦がありました。2.しかしその翌年には、政豊と続成は「続成が俊豊追放に同意すること。その見返りとして、政豊が垣屋氏等俊豊に味方した国人等に恩給した所領は追認する」という条件で和解したと思われます。
その結果、俊豊は備後へ走ることになります。明応8年(1499)には政豊が没し、致豊が守護となりました。
ところが永正元年(1504)夏には、垣屋続成と山名致豊の抗争が再燃し、続成が致豊・田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城(出石町)を攻めます。この戦いの結果は明らかではありませんが、永正2年(1505)年6月将軍足利義澄が致豊と続成に和解勧告をしているところから(「はるのよのゆめ」)、両者の対立はさらに続いたようです。永正8年(1511)には続成と致豊は和解し、それによって続成は守護代となったようです。翌年には致豊は弟誠豊に守護職を譲渡し、続成は鶴ヶ峰城を築城して楽々前城から移っています(「因幡垣屋系図」)。
永禄12年(1559)8月織田信長の命を受けた木下藤吉郎(羽柴秀吉)・坂井右近(政尚)が生野銀山を接収し、此隅山城・垣屋城など18城を攻略しています。この時、落城した「垣屋城」は楽々前城だと思われます。
楽々前城のその後については明らかではありませんが、天正6年(1578)には城主が織田方に与同し秀吉傘下に入ったものと思われます。
『豊岡市の城郭集成2』より
このお城ののみどころ
小規模な曲輪を断続的に構築したような南北朝期の遺構から、畝状竪堀をもつ戦国末期の遺構まで存在する城跡です。標高307メートルの山上に位置し、山裾を取り巻いて流れる稲葉川を天然の堀として利用していました。
住所 | 〒669-5343 豊岡市日高町道場 |
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料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス |
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