歴史・背景
【官兵衛とのかかわり】 天正六年(1578)秀吉が三木城を攻めた際に、加古政顕が別所方として三木城に入城しました。阿閇城は小城ながらも海上ルートの監視に適していたため、秀吉は毛利から三木城への物資の流入を防ぐためにこれを押え、織田方についた別所重棟を城に入れました。
同年四月、雑賀衆を含む約八千人の毛利水軍が阿閇城へと迫りました。これに対し、官兵衛は兵500で毛利勢を撃退することに成功しました。この戦報は信長にも届き、この時の信長の感状の内容が『黒田家譜』に残されています。
阿閇城は加古政顕の領する小城であったとされていますが、詳細は不明です。
天正八年(1580)終に三木城が落城し、秀吉は城下の鎮静を図るともに西播磨の平定、そして姫路城へと本拠を移しました。その際、不要となった城を壊すよう命じたが、その中の一つ阿閇城も津田小八郎の手によって廃城となりました。
『阿閇の里』播磨町刊/播磨町の民話と郷土史』播磨町立図書館刊参照
このお城ののみどころ
阿閇城の跡地として見られている1つが蓮花寺。阿閇城の名前は播磨灘物語にも書かれていますが、どこにあったのかは不明な部分があります。
現在、別府は加古川市にあり、阿閇は播磨町内と分かれていることも事態をさらに複雑にしています。しかし元々は阿閇荘がこの辺り一帯を指していますので、その中の別府(村)にあったお城ということが名称がいくつもある由縁なのでしょう。ここから先は完全に想像の世界です。つまりお城めぐりの醍醐味というわけです。
播磨町内では、周囲に濠があったとされる蓮花寺や、福勝寺、はたまた多木化学の工場敷地内にあったとみる説などがあります。一方、加古川市内の説には秀吉の「別府表」から別府町に着目し、字名として”屋敷”と伝わる場所を比定しています。
本岡氏の詳しい訪問コメントはこちら
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/ae/ae.htm
住所 | 〒675-0154 播磨町本荘4丁目11-21(阿閇神社付近) |
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定休日 | 休業日なし |
料金 | 無料 |
駐車場 | なし なし |
アクセス |
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TEL | 079-435-2918 |