歴史・背景
城主は森鼻氏といわれていますが、詳細は不明です。なお、森鼻氏は、永禄13年(1570年)に越前守重頼と左衛門大輔が播磨の清水寺へ田地二段を寄進していることが「家わけ史料清水寺文書68」にて確認できます。
また、城山から南にのびる尾根先端部分と接続する高台に立地する居宅周辺は、「森鼻城居館跡」という名称でよばれ、当城の館に比定されています。この居宅の南側には、石垣を伴う幅約2メートルの水堀が存在しています。
当城は、周辺の中世城郭と比較した場合、比較的高い山に立地し、まとまった規模で存在している点が特筆されます。
また、当城の館比定地とされる場所には付近に館の形態を示すような遺構は存在せず、民家背後の城山へと接続する部分にも堀切等の遺構は確認できません。民家南側の石垣を伴った水堀も屋敷地全面を遮断するような施設ではなく、観賞用の池の一種と考えられています。また、地元にも当城の館といわれる場所やそれにまつわるような伝承、地名は残されていないようです。したがって、当城の館比定地には、今後のさらなる検証が求められます。
また、山城と同時に機能した平地の施設があったとしても、現在に遺構を残さないようなものであった可能性も想定しておく必要があります。
このお城ののみどころ
三田の城の縄張りでは、最大規模の山城の一つといわれています。森鼻氏居館跡と推定されている「森鼻城居館跡」が、城山から南にのびる尾根先端部分と接続する高台にあります。
住所 | 〒669-1357 三田市東本庄 |
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料金 | 無料 |
駐車場 | なし |
アクセス |
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